名古屋に行く途中の電車の中で読んでいた本の中に、桜守(さくらもり)をされている「佐野藤右衛門さん」の話が出てきました。弱りかけた桜があると聞けば、全国どこへでも出かけて行くという佐野さんは、京都の嵯峨野に住む、造園業「植藤」の十六代目だそうです。
その佐野さんの話がとても興味深かったのです。もっとこの方の事を知りたいと思っていたら、ナントその翌日、NHKテレビの「人間ドキュメント」という番組で、「桜のいのち 木のこころ ~桜守 佐野藤右衛門~」と、取り上げていたのです。この偶然に大感激でした。
佐野さんは、「桜を世話したり、育てているつもりはない。ただ、桜の“もり”をしているだけだ。」とおっしゃっていました。「いつも一緒にいて、気にかけていればいい。必要な時だけ手を差し伸べてやれば、自分の力で育って行く。子守りと同じだ。」と言うのです。
「“世話”と“お守(おもり)”と、どう違うのですか?」という質問には、「“おもり”というのは、いつも一緒にいること。いつも背中に乗せているということ。“世話”はそこに行って何かをすること。“世話”は、してやったことだけしか分からない。“おもり”はいつも一緒にいるから、全部分かってくる。」「今、子守りをしないから具合が悪い。“子守り”をせんと、“子育て”をしているから子供達がおかしくなってくる。」とおっしゃるのです。
佐野さんは、弱った桜に薬をやったり、強い肥料をやりません。何が原因で弱ってしまったかを突き止めて、原因を取り除いてやるのです。“お守”をしているからこそ分かる原因なのでしょうね。後は桜に任せるしかないと見守っているのです。
“世話はしない、もりをするだけ”と聞くと、一瞬、無責任な事のように感じました。しかし、「いつも一緒にいて、困った時だけ手を差し伸べる」という“もり”は、かなり難しく、成熟した人でなければできないのではないかと思います。佐野さんの短い言葉の中に、さまざまな経験や想いが詰め込まれていました。
電車の中で、佐野さんの想いにほんの少し触れた後、行き先だった名古屋市公会堂に着きました。鶴舞公園の中にあるこの公会堂は、大変古い建物でした。外壁に使われている石とタイルが重厚感をかもし出しています。内部の仕上げも、すばらしい細工がいく箇所もあり、ついつい見入ってしまいます。古いけれど、とても魅力的な建物です。
桜守りではないけれど、この公会堂も誰かがお守りをしているからこそ、残っているのでしょうか。成熟した人の、“もり”があればこそのものを身近に感じたのでした。
そして、「どうせ20年もしたら壊しちゃうから」という思いの、お守りのいらない建物だけはつくりたくないと、ますます強く感じたのでした。